写真でつなぐ、人と未来 ― 写真・映像文化醸成に人生を捧げる“好き”を超えた情熱
2025年5月16日


キヤノンマーケティングジャパン(以下、キヤノンMJ)で写真・映像文化の醸成に注力する林田 優子。
写真の持つ力に魅了され、「写真の仕事に携わりたい」という強い想いを抱き続けてきた彼女は、事務機営業からキャリアをスタートしながらも、写真への情熱が実を結び、現在はイメージングカルチャー推進課で、キヤノンギャラリーの企画・運営、写真家の発掘・育成・サポート、さらには国内最大級の「キヤノンフォトコンテスト」の運営など、多岐にわたる業務を担当する。
写真家たちと直接向き合い、表現を支える日々。キヤノンの機材を通じて新たな撮影の可能性を広げる挑戦。そして、次世代へ写真・映像文化を継承する活動。その一つひとつに、林田の信念が宿っている。「写真の魅力を、もっと多くの人に知ってほしい」。その想いの根底にあるものとは何か。彼女の歩みとともに、情熱の源泉を探る。
「写真・映像文化の発展」という使命。その中心にあるのは愛と場

「私の人生から写真を取ったら、身体しか残らないかもしれない。人生を決めたと思うのも写真ですし、どこまで記憶を遡っても写真がある気がします」
そう語り、「でも撮られるのはいつまでたっても苦手なんですよね(笑)」とこぼしながら笑みを浮かべる林田。カメラメーカーとしてスタートし、日本にとどまらず世界における「写真」という文化を、写真家と共に築いてきた「キヤノン」を体現しているような人物だ。
本稿は、林田の半生にフォーカスしながら、彼女とキヤノン、両者の「写真への愛」と「写真という文化を未来へ引き継いでいく責任」について語るが、まずはキヤノンについて。林田の所属するキヤノンMJのイメージングカルチャー推進課の事業に触れたい。
当部門は、写真・映像文化の発展に貢献することを使命として、ギャラリーやコンテスト、写真家オーディションなどの運営を通じ、写真家や写真愛好家への支援を行っている。
その活動のコアとなるのが「キヤノンギャラリー」の運営だ。ギャラリーは、写真家の表現活動をサポートし、来場者の方々に写真の魅力を感じていただくことを目的に、写真家や写真愛好家が作品を発表する機会を提供する場として発展してきた。
歴史は長く、もともとは、1973年にプロの写真家のためのサービス拠点として銀座に「キヤノンサロン」をオープン。その後、2005年に名称を「キヤノンギャラリー」に変更。現在は品川、銀座、大阪の3拠点で展開している。銀座・大阪では主にプロ・アマ問わず公募による写真展を実施しており、品川の「キヤノンギャラリー S」では企画写真展や写真・映像作家発掘オーディション「GRAPHGATE」のグランプリ作家の展示などを行っている。また「オープンギャラリー」では、キヤノンMJが長年収蔵してきた3,000点以上にもおよぶ作品「キヤノンフォトコレクション」を展示するほか、企画写真展、グループ展、学生の選抜展などさまざまな写真展も開催している。ギャラリーの運営について、林田は次のように語る。
「近年、写真を取り巻く環境が大きく変化していますが、私たちキヤノンはプロ・アマの枠を超え、常に写真家に寄り添いながら、写真表現の新しい試みを開拓し、写真文化活動のすそ野を広げています。時代や社会の変化を見ながら企画の方向性を検討し、どうすれば写真の魅力を最大限に伝えることができるかを模索し続けながら、ギャラリーを運営しています。ちなみに、これまでの写真展の開催数は、開設50余年という長い歴史もあり銀座だけでも2,000回を超えているんですよ」
“挑戦”と“評価”という対話により、“交流”を生み、文化としての熱量を向上させる
写真家の支援においては、キヤノンが開催する各種コンテスト・オーディションもまた重要な役割を担う。1950年に始まった「キヤノンフォトコンテスト」は同課が運営に携わり、全国の写真愛好家が幅広く参加。現在では全国から2万点を超える応募がある国内最大規模のコンテストとなっている。
「自身の作品を発表し他者から評価を受ける、というのは創作の世界では重要で、作品づくり、ひいてはその文化全体の熱量の向上には欠かせないプロセスの一つと考えています。かつ、同じコンテストに応募した参加者同士でも交流が生まれて、その熱がさらに広がっていきます」

さらに、2023年から新たに始動した写真・映像作家のオーディション「GRAPHGATE」は、未来の写真・映像文化を担う新人作家を育成・支援するためのオーディションで、受賞者に個展開催などの作品発表の機会や機材サポートが与えられる。

「今だけでなく、未来にも目を向け、新しい才能を発掘しさまざまな業界へ送り出す。そのための仕組みをしっかりと整えていくこと」。このオーディションの意義は、未来を考えることと語る林田。その言葉の端々から、情熱だけでなく、責任の色も強く感じられる。
加えて、イメージングカルチャー推進課には写真家と技術者をつなぐ役割もある。銀座には、写真家が最新機材を試し、開発担当者やサポート対応部門と意見を交わす場も設けられている。技術革新の現場と写真文化の現場をつなぐこの取り組みは、キヤノンMJならではの強みだ。
「単なる機材のテストスペースではなく、写真家同士が出会い、交流し、情報交換をする場でもあります。写真家にとっての“止まり木”のような場所。撮影の合間に立ち寄り、次の撮影のヒントを得るなど、写真を軸にしたコミュニティーが自然と生まれています」
写真文化の発展には、作品がより多くの人の目に留まる場、技術を支える環境、そして人と人とのつながりが欠かせない。ここまで取り上げてきた数々の取り組みは、長年培ったイメージング技術と写真家と共に写真・映像文化を育む活動を続けてきたキヤノンだからこそ成しえるものだといえる。林田は使命感を持ったメンバーと共にそれらを通して、写真という文化の土壌を耕し続け、より良い未来を育む役割を果たしている。
夢を諦めない。14年越しの熱意で掴んだチャンス
今でこそ林田は前述のような文化的かつ幅広い業務に携わっているが、ここに至るまでの道のりは決して平坦ではなかった。
そもそもの写真との最初の出合いは幼少期に遡る。父から手渡されたフィルムカメラで家族写真を撮影し、その出来栄えを褒められたことが強く印象に残った。その一枚はいまだに実家に飾られているという。ただ、この時点では写真そのものが特別な趣味となったわけではなかった。
本格的に写真の力を意識したきっかけは、ある写真集との出合いだった。書店で手に取った荒木 経惟氏の『センチメンタルな旅・冬の旅』。作品に触れた瞬間、涙があふれ、込み上げる感情を抑えられなかった。写真が言葉を超え、感情を揺さぶるものだと実感した瞬間だった。

「前半が荒木氏と陽子夫人の新婚旅行を撮影した写真を収めた1971年刊行の『センチメンタルな旅』、後半が陽子夫人が亡くなるまでの写真をテキストとともに日記のように掲載した『冬の旅』、という2部構成の本です。
この写真集で『生と性と死』について否応なしに考えさせられました。今目の前で起きていることがその瞬間から次々と過去になってしまう儚さや、先の見えない不安など、さまざまな心の震えが、被写体の表情や空の写真に込められているように見えた。当時の自分は今ほど深く読み取れていなかったはずで、名前も知らない感情の波におぼれて、わけも分からず涙が出てしまった、そんな本でした。
写真が人に与える影響、そして写真を通して気づくことのできる感情の豊かさ、それらを一度に体感して、幼い頃フィルムカメラに触れたときに蒔かれた種から芽が出た瞬間だったような気がします。ここから自分の人生は始まったのかなと」
大学では法学を専攻していたが、次第に自身の関心が美術やアートに向いていることに気づく。そこで、夜間の文学部にも通い学芸員の資格を取得した。しかし、学芸員の道は狭く、なかなか就職先が見つからない。そんな中、「写真やカメラに関わる仕事なら、自分のやりたいことができるのではないか」と考え、当時のキヤノン販売(現:キヤノンMJ)に入社する。だが、配属されたのはカメラ事業部ではなく、事務機の営業部門だった。
思い描いていた仕事そのものではなかったが、林田は「いつかチャンスが巡ってくる」と、目の前の仕事に全力を注いだ。やはり、キヤノンに勤めていると徐々にカメラの開発者や写真制作の担当者との接点が増え、写真への興味はさらに深まっていく。仕事の傍ら、EOS学園(キヤノンの写真教室)に通い、夜間の写真学校にも足を運んだ。そして、ついには自宅の浴室を改造して暗室を作るほどのめり込んでいく。
しかし、さまざまな事情が絡み合い、この時点でもカメラ事業部への異動はなかなか叶わない。
「希望を言葉にしているだけでは変わらない。ならば行動で示すしかないと思い、自分が撮った写真を年賀状にして毎年欠かさず上司に送りました。『私は写真が大好きです』ということを、写真そのもので伝え続けたんです」

そして、入社から14年が経った頃、ついに転機が訪れる。林田の写真に対する熱量を十分すぎるほど受け止めてくれた上司が「写真が本当に大好きな社員がいるのですが」と掛け合ったことで、「キヤノンギャラリー」の運営を担う部署への異動が実現した。
「辞令を受けた瞬間、上司を前に思わず涙がこぼれました。写真への熱意が伝わったこと、ようやく写真に関わる仕事ができること、その両方が一気に押し寄せたんです。諦めそうになることもありましたが、人に恵まれていたこと、仕事が楽しかったことに支えられました。何より、写真への情熱を持ち続けていたからこそ、このチャンスを掴めたんだと思います」
写真家との交流で実感した、「架け橋」としての自分自身の役割と責任
念願のギャラリーの運営に携わるようになって以来、林田は写真文化の発展に寄与するために、積極的にさまざまな施策に奔走した。その中で「写真の力」をこれまで以上に実感するようになった林田だが、一方で、より強く課題だと感じていることもあるという。

それは、触れた者の人生を変えるほどの力を持つ“写真”だが、それほどのものを作り出せる写真家たちでも、自身の作品を発表し、世に広めていくことについては手探りだということだ。その上、仮に発表の場を見つけられたとしても、展示のためには印刷や額装をしなければならず、そこの金銭的な負担は写真家個人がするケースがほとんどだ。特に若手の写真家の場合、それを理由に出展を諦めることも少なくない。そのような状況を目にしてきて、林田は今改めて自身が果たすべき役割を「架け橋」と定めたという。
「異動当初、『プロの写真家のサポート』と『ギャラリーの運営』は別の部署が担当していましたが、しばらくして統合し、両方の業務を担当するようになったんです。それを受けて、“才能ある若い作家を発掘し支援すること”をイメージングカルチャー推進課の使命としてより強く意識するようになりました」

そこから林田は、ギャラリー巡りや写真集のチェック、業界のキーマンや編集者に話を聞きに行くなど、より積極的にアンテナを張っていく。写真展の初日には必ず足を運び、作家に直接声をかける。こうした積み重ねによって、若手写真家とのつながりを築いてきた。
現在、林田が運営を担当するキヤノンギャラリー Sでは、国内でも有数の規模を誇る写真専門の展示スペースとして、開設当初から著名な写真家の展示を積極的に実施。次第に、他の写真家たちからも「ここで展示をしたい」という声が集まるようになった。
また、“場”の提供だけでなく、写真家を次のステージへ押し上げる仕組みが必要だと考えた。そこで、GRAPHGATEでは、あえて写真家ではなく、キュレーターやプロデューサー、アートディレクターなどに選考委員を依頼。こうした幅広いネットワークの活用により、GRAPHGATE受賞経験のある写真・映像作家が海外の展示会に招かれたり、大手メディアで特集されたりするケースも増えているという。
NO PHOTO, NO LIFE ― 写真とともに生きる

写真には、人の心を動かし、人生を豊かにする力がある。だからこそ、キヤノン製品を通じてもっと多くの人に写真の魅力を伝え、社会に役立てていきたいと、林田は考えている。
「例えば、写真にはフォトセラピーといわれる芸術療法的な側面があります。構図を考えたりシャッターを押したりすることで認知機能が刺激され、心の癒しにもつながる。このように、写真の持つ力はもっと多様な形で生かしていけるはずです」
写真・映像文化の未来を支えるためには、業界全体の底上げも欠かせない。
「これからの時代は、競合他社も含めたさまざまなプレーヤー・ステークホルダーの方々と共創しながら写真・映像文化を支え発展させていくことが重要です。実際、他社のギャラリーや美術館の関係者とも積極的に情報交換を行い、業界全体の発展について考える機会も増えています。競争だけではなく、連携によって写真文化を守っていきたいですね」
林田にとって、写真は人生そのものだ。
「写真がなかったら、私はこんなに多くの人と出会うことはなかったし、全く違う人生を生きていたと思います。カメラがあったからこそ、知らない人と話すきっかけが生まれ、新しい世界が広がった。
写真とカメラを通じて、一人でも多くの人の人生が豊かになるような社会を作っていきたい。それが、私の“情熱の源泉”なんです」
“NO PHOTO, NO LIFE”
それは自身の人生を表す言葉であり、これからも写真・映像文化の啓蒙、発展に尽力し続ける理由でもある。

本記事に関するアンケートにご協力ください。
2分以内で終了します。(目安)