「誰かの目標でありたい」プロバスケ選手・津屋 一球がハンデを糧に拓いた道とは
2025年11月20日
男子プロバスケットボールリーグ「B.LEAGUE(以下 Bリーグ)」三遠ネオフェニックスに所属する津屋 一球(かずま)選手。2025年2月には男子日本代表に初めて選出されるなど、その活躍に注目が集まっています。
生まれつき聴覚に障がいがある津屋さんがバスケ選手として成長する過程には、大きな転機となる出合いがあったといいます。現在、社会貢献やビジネスの立ち上げにも取り組むなど挑戦の場を広げている津屋さんに、成長の糧となった経験や想い、そして目指す未来について伺いました。
「負けたくない」が原動力に。ハンデを糧に切り拓いたプロへの道
― まずは、津屋さんのバスケとの出合いからお聞かせいただけますか。
親友に誘われたのが、バスケを始めたきっかけです。小学校4年生の時に始め、すぐに地元・青森市の大会に出場し、いきなり優勝できたことがうれしくて一気に夢中になりました。実は小学校1年生の頃から野球のクラブチームに所属していて、バスケを始めてからも1年くらいは続けていたのですが、だんだんと気持ちがバスケの方に傾いて、最終的にはバスケ一本に絞りました。
― 中学校に進んでからは、どんな環境でプレーしていたのですか。
最初は、兄や姉と同じ中学校に進学しました。そこは野球の強豪校で、僕を「一球」と名づけた父は、きっと野球をやらせたかったのだと思うのですが、自分の意思でバスケ部に入りました。2年生の夏には「もっとバスケが上手くなりたい」と、自分から親に頼み込んでバスケ強豪校に転校させてもらいました。
― かなり早い段階から、自分で環境を選び抜いてきたのですね。プロや日本代表への想いは、その頃から芽生えていたのですか。
小学6年生の時に全国大会に出場する予定だったのですが、東日本大震災の影響で中止になってしまって。その時「日本代表選手を目指せ」と恩師が背中を押してくれた言葉が、ずっと心に残っていたんです。大きな目標を叶えるために自分で環境を変えていき、高校や大学も強豪校に進みました。
― 世代別の日本代表選手に選ばれるなど、学生時代からトップレベルで活躍されてきたのですね。津屋さんは、生まれつき耳がほとんど聞こえず、バスケも補聴器をつけてプレーされていると伺いました。小さい頃はそれをどのように受け止めていましたか。
小学校に入る前は、なんとも思っていませんでした。でも次第に「自分は人とちょっと違うんだな」と感じるようになり、補聴器を付けるのが恥ずかしくて嫌だった時期もあります。ただ、ありがたいことに僕は身体が大きく、バスケに夢中になれた。そのおかげで前向きに過ごせたと思います。
― バスケを続ける中で、苦労はありましたか。
一番大変だったのは補聴器の故障です。バスケは接触が多いので、試合中に落として壊れることが何度もありました。当時は「なんで自分だけ?」と思うこともありましたが、故障するたびに親がすぐに修理に出してくれましたし、予備も用意してくれるなど、いま振り返ると、本当に両親に支えてもらっていたなと思います。
― 難聴というハンデが、津屋さんの心を強くしたり、成長の原動力になったりしたと感じることはありますか。
ありますね。ハンデがあるからこそ、「絶対に誰にも負けたくない」っていう想いをずっと持ち続けることができました。そのぶん誰よりも練習しようと心に決めていましたし、自分のハンデを認めた上で強い気持ちを持つことができました。
― そうした「負けたくない」という強い気持ちが生きた経験があれば教えてください。
プロになったばかりの頃ですが、当時所属していたチームの方針に合わせられず、自分のプレーを見失い、試合に出られないどころか練習でもコートの外にいる時間が長く続いたことがありました。とても悔しかったですが、必ずチャンスはあると信じて、体づくりやコーチが求めるプレーをやり切ること、自分を認めてもらえるシーンをいかにつくるかなどを考え抜き、1分でもチャンスをもらえたら結果を出せるように準備を重ねました。
するとある日、出場機会を得られ、自分の力を発揮してチームに貢献することができたんです。そこから徐々に出場時間が増え、スターティングメンバーとして起用されるなど主力として評価されるようになりました。あの時の経験は間違いなく、いまの自分につながっています。
「自分のため」だけでなく「誰かのために」。価値観が変わったデフバスケとの出合い
― 学生時代、バスケに対する考え方が変わるような、大きな出合いがあったそうですね。
はい。高校3年生の時、当時のデフバスケ日本代表監督と出会い、聴覚障がいのある選手のみで行うデフバスケの存在を初めて知りました。
それまで、自分と同じように補聴器を付けてバスケをしている人に出会ったことがなく、ハンディキャップがありながら、目標に向かって高い志でプレーしている人たちがいる光景に衝撃を受けたんです。自分だけが特殊な環境にいるように感じてきたのですが、決して一人じゃないんだと気付かされました。
そして、自分がトップレベルでプレーしているからこそ、そういう選手たちの目標になりたい、という想いが芽生えました。その時からですね、難聴を「個性」や「武器」として本当に受け入れられるようになったのは。
― デフバスケと一般のバスケの違いは何でしょうか。
デフバスケでは、試合中に補聴器を外さなければいけません。つまり、全員が聞こえない状態でプレーします。一般的なバスケでは、声を出して味方に状況を伝えますが、それが一切できないんです。
まるでプールの中でプレーしているような感覚で、声は届かないし、伝えたいこともすぐには伝えられない。サインや足音、ちょっとした接触などを使って、互いに意思伝達を工夫します。相手や味方の視線や手ぶり、身体の動き一つひとつに集中しなければいけないので、そこが難しくもあり、面白さでもあります。
― デフバスケの経験は、通常のバスケのプレーにも影響しましたか。
間違いなく影響を受けましたね。コミュニケーションをより強く意識するようになりました。バスケは情報量が本当に多いスポーツなのですが、音が聞こえることや声を出してコミュニケーションを取れることが、どれだけ大きなアドバンテージだったかに気付かされました。
それに、デフバスケに出合う前は、純粋に「もっとバスケがうまくなりたい」、「どこまで自分が上に行けるか」ということだけを考えてプレーしていたんです。でも、デフバスケのメンバーと活動するうちに、難聴の人はもちろん、いろんな悩みを抱えている人の目標になりたいという気持ちが強くなりました。自分のためだけではなく、誰かのために頑張ろうという気持ちが芽生えたのは、大きな変化でした。
自分のプレーや行動が、誰かの背中を押すことにつながる
― プロになった現在も、デフバスケに携わっているそうですね。
悩みを抱えている人の力になりたいと考え、NPO法人の理事として活動しています。デフバスケの普及活動を中心に、児童養護施設への訪問やチャリティイベントの開催などをプロリーグのオフシーズンに行い、バスケに詳しくない方や、聴覚障がいがある方、いろんな人が集まって楽しめるような場をつくりたいと考えています。
― プレーだけでなく、企画などから手掛けていらっしゃるのですか。
はい。イベントを企画・運営するのは、想像以上に大変で。何から始めればいいのか、どれくらいの人手が必要なのか、費用はどのくらいかかるのか……ずっとバスケだけをやってきたので、バスケ以外のことをゼロから学べるのは自分にとって大きな経験です。自分はまだ何もできないなと痛感しますが、それも含めて気付けたことが大きいと思っています。
― 周囲の反応などはいかがですか。
ありがたいことに、メディアに取り上げていただく機会も増えて、僕のことを知ってくださる方が少しずつ増えてきました。特に多く寄せられるのは、聴覚障がいがあるお子さんを育てている保護者の方たちの声です。
僕がBリーグというトップレベルの舞台でプレーしている姿を見て、「障がいがあっても関係ないんだ」と感じていただけて。「子どもがやりたいと言っているのに、無理かもしれないと別の道を勧めてしまっていた。でも津屋さんの姿を見て、チャレンジさせてあげたいと思えるようになった」などのメッセージをいただくようになりました。
自分のプレーや行動が、誰かの背中を押すことにつながるかもしれない。知ってもらう範囲が広がれば広がるほど、同じような悩みを抱えている人に届くかもしれない。自分のためだけではなく、「誰かの希望になるためにバスケをしている」という感覚は、確実に強くなっています。
限界は、自分で決めない
― チームの躍進に貢献し、プロバスケ選手としての活躍に注目が集まっていますが、今後達成したい目標はありますか。
まずは、所属する三遠ネオフェニックスで優勝することが一番の目標です。コーチ陣もメンバーも信頼できる仲間なので、このチームで結果を出したいという想いが強いですね。個人としては、シューターとして3ポイントランキングで1位を取るという目標もあります。
そして、チームのある三遠地域をもっと盛り上げて、バスケ文化を根付かせていきたいです。地元の方々がどこかへ遊びに行こうとなった時に、「三遠のバスケを観に行こう」と思ってもらえるように、日々の練習を一つひとつ大事にしていきたいと思っています。
― バスケに取り組む姿を通じて、観る方々に伝えたいことはありますか。
「自分で限界を決めないでほしい」ということですね。障がいに限らず「無理だ、自分にはできない」と思ってしまうことって、誰にでもあると思うんです。僕自身もそうです。でも、そこで諦めずに向き合い続けてきたから、いまもバスケを続けていられるんだと感じています。
― ご自身も、バスケはもちろん、さまざまなことに挑戦されていますね。
先ほどお話ししたNPO法人の活動のほか、会社を立ち上げて事業に挑戦しています。自分自身が睡眠障がいを抱えていたこともあり、その解消と、同じ悩みを持つ人の助けになることを目指し、まずは枕をプロデュースしました。工場とも直接やりとりをして商品開発し、アップデートを続けています。
今後に向けても、いろんな構想を持っています。生きづらさを感じていたり、困っていたりする人たちをサポートしたく、就労継続支援B型※の事業をスタートさせたいと考えているところです。また、まだBリーグのチームが存在しない和歌山県にバスケチームを設立するプロジェクトにも携わっています。
あくまでも自分の本業はバスケ選手としてプレーすることです。だからこそ、事業の方はチームを組んで助けてもらいながら、自分にしかできない部分に集中するようにしています。どこまで形になるかは分かりませんが、いまできることを一つひとつ実行していきたいです。
― 「自分で限界を決めない」という姿勢を体現されていますね。
アスリートって、いつクビになってもおかしくない職業だと思うんです。でも、自分には「バスケだけじゃない」選択肢がある。そのことが、将来に対する不安を軽くしてくれました。もちろん現役にはこだわり続けますが、精神的な安心感は大きいです。
活動のフィールドを広げることで「こういう仕組みがあったら便利だな」など、身の回りの見え方が変わりますし、さらに新しく挑戦したいという意欲も芽生えてきますね。
― 最後に、さまざまな活動を通して津屋さんがつくっていきたい社会を教えてください。
やっぱり「違い」が当たり前にある社会がいいですね。例えば聴覚障がいがあると、友だちに補聴器を見られたくないとか、恥ずかしいと思ってしまう場面がある。でも、周りが「そういう人もいるよね」と普通に受け止めてくれたら、本人はすごく救われるんです。
僕自身、仲の良い友だちが普通に接してくれたことに救われましたし、いまのチームメイトも誰一人として僕を特別扱いしません。試合や練習で声が聞こえなくてミスしたとしても、「聞こえないから仕方ないよね」とは絶対に言われない。そのように、ハンデを言い訳にできない環境の方がありがたい。もちろんサポートが必要な人もいますし、全てのケースに当てはまるわけではありませんが、「特別扱いされたくない」と感じている人がいることも知ってもらい、「違い」を当たり前にできたらうれしいですね。
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