足を失った人にとって、「走る」ことが大きな力になる。スポーツ用義足を日本に広めたパイオニア・臼井 二美男さんに聞く
2025年10月15日


義足で「走る」。かつて日本には、その発想自体がほとんどありませんでした。しかしいま、多くの切断障がい者(病気や事故などで手や足を切断した方々)がフィールドを駆け抜け、パラアスリートが世界で活躍しています。
走るためのスポーツ用義足を日本に広めたパイオニアが、義肢装具士の臼井 二美男さんです。30年以上にわたりスポーツ用義足の開発・普及に尽力し、走ることを諦めていた人々に新たな可能性を届けてきました。
臼井さんがこの道を志したきっかけから、切断障がい者がスポーツに挑戦することの意義、この先の想いを伺いました。
初めて義足で「走れた」感動を目の当たりに
― 初めに、義肢装具士とはどのような職業なのか教えてください。

事故や病気で手や足を失った方のための義手や義足、身体の機能をサポートする装具などを製作する仕事です。身体の一部を作るわけですから、単にモノを作るだけでなく、一人ひとりと深く関わり、生活までサポートします。
私は「鉄道弘済会 義肢装具サポートセンター」という、義肢の製作から装着訓練、更生相談までを一貫して担う、日本では珍しい総合リハビリテーション施設に所属し、現在は義肢装具研究室の室長をしています。
― 臼井さんはどのような経緯で義肢装具士になったのでしょうか。
大学中退後、トラックドライバー、警備員、露天商、バーテンダーなどさまざまな仕事をしましたが、なかなか自分の道を見つけられずに悶々とした日々を過ごしていました。28歳のときに「きちんと職に就きたい」と職業安定所へ行った帰り道、偶然「義肢」という文字を掲げた職業訓練校の看板が目に留まったんです。

その2文字が、ある記憶を呼び起こしました。小学6年生のとき、担任の先生が病気で脚を切断し、義足で教壇に復帰されたことがあったんです。その先生に「触ってみる?」と言われて義足に触らせてもらったときの硬い感触が鮮明によみがえり、ご縁のようなものを感じました。
すぐにその学校に応募したのですが、まずはどんなところで働くことになるのか知っておきたいと思い、都内の義肢製作所に電話しました。その製作所にもっと大規模な施設として鉄道弘済会を紹介され、連絡したら見学させてもらえることに。見学では当時の義肢課長さんが出てきていろいろとお話を聞かせていただき、最後に「明日もう一度来てほしい」と言われたんです。それで翌日に伺ったら、「ぜひ見習いとして雇いたい」と。こうして何の知識もないままに、いきなり現場に入ることになりました。
そんな風に始まった義肢装具士としてのキャリアですが、結果的には私に合っていたんだと思います。それまでの仕事は「このままこの仕事を続けていていいのだろうか」と思うことが多かったのですが、この仕事はそんなことを考える暇がないほど忙しかった(笑)。いまの若い義肢装具士は3年制の専門学校や4年制の大学の義肢科を出て就職するので、入社初日から本格的に仕事に入れますが、私は飛び込みで就職した素人だったので、患者さんの足の型を採るなどの基本的な仕事をさせてもらえるようになるまでに3年かかりました。よい義肢を作れずに患者さんからきつく当たられたこともあります。ある程度仕事に手ごたえを感じられるようになったのは、入社して10年ほど経ってからのことです。

― 生活用義肢を扱っていた臼井さんが、スポーツ用義足に出合ったきっかけはなんだったのでしょうか。
1989年に新婚旅行でハワイに行った際、せっかくだから現地の義肢製作所を見学したいと思い、電話帳で調べて、英語も話せないのに勇気を出して電話をかけてみたんです。すると快く受け入れてくれて、見学先で「日本人はこれを見たことがないだろう」と、カーボンファイバー製の足部を見せてくれました。正確には足部の芯の部分がカーボンファイバーでできているものです。これがその後の私の人生を変える出来事になりました。
当時日本で普及していた一般的な足部は木、良くてプラスチックの芯を使っていました。一方、カーボンファイバー製のものはそれらとは全く違い、「とても軽くて反発性があり、走れるしスポーツもできる」と聞いて衝撃を受けたんです。帰国後に調べたら、日本にはまだ入ってきていない製品だったので、研究費での購入を申請し、まずは一つだけなんとか取り寄せることができました。価格は25万円。当時の国内の標準的な足部の約5倍の値段でした。
「アメリカではこれで走っている人がいるらしい」と、試しに若い義足ユーザーの方に装着していただき、私が付き添いながら一緒に走ってみました。生活用義足で走る場合、脚を交互に出すことができずスキップのような形になってしまうのですが、この足部を装着したら、ほんの5歩ほどではありましたが、脚を交互に出して本当に走ることができたんです。
もう一生走ることはできないと思っていた彼女の目から涙があふれ出し、それを見た私自身も胸を打たれました。走ることを諦めていた人たちも、新しい素材や部品を使い、練習すれば走れるようになるかもしれない。そんな希望を見出し、この試みを続けたいと思いました。
走ることが笑顔と自信を取り戻す。クラブ活動で目の当たりにした変化
― その試みが、やがてクラブ活動へと発展していったそうですね。
はい。取り寄せた足部によって最初のひとりが走れるようになってから、他の方にも挑戦してもらいました。交代でカーボンファイバー製足部を装着して練習に取り組み、3人、4人とメンバーが増えていく中で、「そろそろこの活動に名前を付けよう」と思い、1991年に立ち上げたのが、切断障がい者の陸上クラブ「ヘルスエンジェルス」です。アメリカのバイクチーム「ヘルズエンジェルス」をもじり、「ちょっと“ワル”になったくらいの気持ちで、新しいことに挑戦しよう」という想いを込めました。
当時、当センターにはおよそ3,000人の義足ユーザーが通っていました。脚の運動は膝の有無で大きく変わるのですが、約1,000人いた大腿切断(膝より上での切断)の方のうち、走れる人はゼロでした。膝下の下腿切断の方でも、野球や卓球をやっている方がわずかにいる程度。そうした数少ない方々も運動しているうちに義足が壊れてしまうので、恐る恐るスポーツをしていたんです。それがカーボンファイバー製足部の登場によって、ようやく義足でも心置きなくスポーツができるようになりました。
― クラブ活動を通じて、発見はありましたか。
走れる人が増えていくにつれ、分かってきたことがあります。それは、義足で走れるようになると、歩くという動作が驚くほど楽になるということです。

義足の方にとって、歩くことは痛みや不安を伴うものです。そして義足のリハビリは社会復帰、つまり歩けるようになることがゴールで、走るという項目はありません。走ろうとして怪我でもしたら、入院期間が延びてしまいますしね。
でも走るトレーニングを積むと、歩くことが日常動作として軽やかになっていくんです。走ることに挑戦する人たちがそれに気づき、次第に笑顔と自信を取り戻していくのを、私は何度も目の当たりにしてきました。
陸上クラブは「スタートラインTokyo」と名を変え、30年以上、月1回の練習を続けています。いまでは200人以上が参加し、陸上だけでなく、バドミントンやアンプティサッカー(切断障がい者が義手・義足なしで行う7人制サッカー)、ダンスなど、さまざまなスポーツにチャレンジする人が増えています。
― 臼井さんはスポーツ以外の活動にも取り組んでいると聞きました。
10年ほど前から、写真家の越智 貴雄さんと義足ユーザーのファッションショーを開催しています。義足でスポーツをする方は増えてきましたが、それでもいまだごく一部。9割以上の方は運動が苦手だったり、自分には関係ないと思っていたりします。でも、ファッションショーなら「これならやってみたい」と思ってもらえるかもしれない。スポーツに挑戦する人たちが心身ともにポジティブな変化を得られたように、ファッションを通じて前向きになれる機会を提供したいと考えました。
当初は義足を見せること自体に抵抗を感じる方が多く、参加者を集めるのも大変でした。そのため、まずはパラアスリートなど、義足の露出に抵抗が少ない方に率先してショーに参加してもらい、だんだんと参加者を増やしていきました。
やはり実際に素敵な衣装を着てステージに立つと、どの方も「義足は隠すもの」という思い込みが払拭されるようです。そうした変化を目の当たりにすると、大きなやりがいを感じます。最近では積極的にショーに「出たい」という方も多くなり、価値観が変わってきていることを感じています。
技術だけでは、人は支えられない。パラアスリートに寄り添う「伴走者」として
― 臼井さんはパラリンピック選手のサポートもされていらっしゃいますね。
サポートを始めたきっかけは2000年のシドニー大会です。その前年、当時大学生だった鈴木 徹さんが私を訪ねてきたんです。彼はスポーツ推薦で大学進学する直前に、交通事故で右足の下腿を切断していました。
義足になってもスポーツを諦めたくないという彼の強い意志に私も心を動かされ、義足づくりを担当することにしました。1年という短い準備期間ではありましたが、彼は走り高跳びの日本代表に選出され、初めて義足でパラリンピックに出場した日本人の一人となりました。
― サポートに際して、心掛けていることはありますか。

技術面だけでなく心のサポートも大切にしています。人は障がいを抱えると、どうしてもできないことが増えてしまい、自信を喪失したり、気持ちも塞ぎがちになったりします。でもスポーツに打ち込めば身体能力も上がるし、チャレンジ精神やコミュニケーション能力も成長していく。その伴走者として、常に一人ひとりの気持ちを丁寧にくみ取り、想いに向き合うことが大事だと思っています。
― スタートラインTokyoからも、多くのスポーツ選手が誕生していますね。
はい。最近では昨年6月に左大腿を切断し、今年パラバドミントンの強化指定選手に内定した河合 紫乃さんというアスリートがいます。彼女はもともとバドミントン選手でしたが、怪我の手術の後遺症で左足の感覚を失って8年間車椅子生活を送り、車椅子フェンシングで活躍していました。その後、足の症状が悪化したことなどから、左足の切断を決断。義足で再び歩けるようになったことを機にバドミントンに再挑戦し、切断からわずか半年後の日本障がい者バドミントン選手権SL3(SL=障がいの程度別カテゴリー)では優勝も果たしました。
8年ぶりに立ち上がり、ブランクを乗り越えて活躍する彼女の姿は、義足が単なる道具ではなくその人の可能性を切り拓く手段なのだと、改めて教えてくれます。
手や足を失った人にとって、スポーツは大きな力になる。日本の義肢の現状とこれから
― 日本の義肢を取り巻く現状について、どのように見ていますか。
義肢を必要とする人にしっかり届けられる体制が整っているという点では、日本はアジアの中では先進的だと思います。義肢製作についても、いまは情報も豊富なので、最先端の技術を海外からも取り入れられやすい環境になってきています。義肢製作の歴史が長いドイツやアメリカなどに比べれば、製品の種類やバリエーションは少なく、研究開発にかけられる予算にも限りがありますが、技術そのものは世界と肩を並べられるところまで来ていると思います。
ただ、制度には課題もあります。障害者総合支援法により、義肢の購入費用は市町村から支給されますが、基本的には生活用義肢のみが対象です。スポーツ用義足は対象外なので、購入には多額のお金がかかります。スポーツは「趣味の範疇(はんちゅう)」とされてしまっているんです。この点については東京パラリンピックを機に議論もされたのですが、制度の見直しには至りませんでした。
例えば、小学生が義足で体育の授業に参加したくても、現状では支援の対象外です。それは非常にもったいないことだと思います。スポーツを通じて得られる心身の健康は、本人だけでなく、家族や社会全体にとっても大きな価値があるはずです。
― 義肢装具士の担い手についてはどうでしょうか。

残念ながら養成校の数も減っていて、なり手が減少傾向にあります。多くの義肢製作所は中小企業で、給与水準やキャリアパスに不安を感じる若い人も多いでしょう。業界として待遇の改善はもちろん、研究や学びの時間を確保できるような職場づくりが必要だと思います。技術継承だけでなく、若い人たちが余裕を持って働ける土壌を作らなければ、次世代の義肢装具士は育ちません。そうしたことさえクリアできれば、義肢装具士という仕事は、けっこう面白いと思うんですよね。
― どのようなところに面白さややりがいを感じますか。
義肢を必要とする方が100人いれば100通りの答えがあり、一つとして同じものがない点です。人それぞれ体の形や感覚、生活スタイルも違います。例えばソケット(足の切断部を収納し、義足とつなぐためのカップ状のパーツ)の締めつけ具合も「きつめが好き」「ゆるめが落ち着く」など、感じ方は人それぞれ。一人ひとりの性格や感性まで汲み取って初めて、その人に合った義肢が完成します。もちろん悩むことも多いですが、良い義肢を納めて患者さんと信頼関係が築けたときの喜びは、何ものにも代えがたいですね。
― 今後に向けて取り組んでいきたいことはありますか。
これからは、次世代にバトンをつなぐことが私の役目です。いまでも遠方から私を頼って来られる方は少なくありませんが、そうした方々をしっかりと後継者に引き継いでいけるよう、若い義肢装具士の育成に力を入れています。技術だけでなく、考え方や姿勢といった「人としての在り方」も丁寧に伝えていきたい。
「スタートラインTokyo」の活動も続けていきます。参加者は子供から80歳くらいの方まで幅広く、最近は子育てを終えた世代など、中高年の参加者も増えています。人生100年時代ですから、50代からスポーツを始めたとしてもまったく遅くはありません。
切断障がい者は手足のある人に比べ、より早く介助が必要になると思われがちです。しかし運動習慣は健康寿命を延ばし、精神的な自立も支えてくれます。それは本人にとってはもちろん、社会全体にとってもすばらしいことです。手や足を失った人にとってこそ、スポーツで得られるものは非常に大きいのだということを、これからも伝え続けていきたいと思います。
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